銀山で栄えた生野町散歩!!の続きです。
「生野まちづくり工房井筒屋」(旧吉川邸)と「銀山町ミュージアムセンター」(旧浅田邸)の間の通りを東にほんの200mほど進むと、一般の住宅街の先にもう一つの古い町並みが現れました。

長い土塀の中は、「三菱マテリアル 生野クラブ」明治19年(1886)建築
元々大山師の邸宅だったものを、三菱が保養施設と迎賓館として使用していました。
(※山師とは本来鉱脈の発見・鑑定を行ったり、鉱石の採掘事業を行う人を差しますが、鉱脈の発見は一攫千金の投機的意味合いもあります。)

道路を挟んで斜め前に「甲社宅」と呼ばれる生野鉱山の社宅があります。
その一つが、志村喬記念館として整備されています。

甲社宅は、年代別に甲7号(大正時代)、甲8号(明治時代)、甲9号(昭和)、甲19号(明治)の続き4棟が職員宿舎の遺構として保存公開されています。
そのうち甲7号は「志村喬記念館」、甲19号は宿泊施設として使用されています。
甲社宅は、生野鉱山に赴任してきた官吏、技術者のための官舎として建てられたものなので、言わば当時のエリート層で比較的裕福な家族が住んでいたようです。

管理棟(甲20号棟)
受付・休憩所と利用され、各種パンフが並び観光案内所の役割も果たしています。

ひと際立派な五月武者人形。
最近は、ひな祭り飾りを公開する観光地が多いですが、五月人形は珍しいと思いませんか。

甲7号棟(大正時代)~志村喬記念館(内部撮影不可)
志村喬さんは黒沢明監督の作品に多数出演した映画俳優です。(昭和57年没 享年76歳)
氏の父親は、生野鉱山の技師だったため、甲社宅内で生まれ幼少期を過ごしました。
なお、生家は現存していません。

甲8号棟(明治9年築)当時としてはかなりモダンだったのではないでしょうか。
柵の向こうに見えるのは甲19号棟(明治後期)
そのままドラマや映画ロケに使えそうな佇まいです。
普段は一般公開していますが、この日は宿泊客が使用していたため見学不可でした。

社宅の子ども達が元気に遊びまわる様子を想像してみました。

志村喬記念館の裏側です。

昔は主婦達がこの井戸の周りに集まってたんでしょうね~。
甲社宅群の裏側は、8つのお寺が並ぶ寺町になっています。
鉱山の作業現場が劣悪で坑内作業者が短命であった事、全国から鉱夫が集まっていたため、様々な宗派が必要だった事が背景という事です。
信仰だけでなく弔いのための役割が大きいようですね。

姫宮神社 最初に訪れた旧浅田邸裏から見えていた神社です。

右奥の橋です。旧浅田邸の庭から・・・。

クラシックで堅牢な石橋です。

橋の上から、旧浅田家の全景が見渡せました。

橋の反対側からの眺めは、生野銀山を紹介するガイドブックやパンフ・チラシなどに登場する代表的景観です。前述の甲社宅の管理棟でチラシを見せて、聞いたら教えて下さったんです。

トロッコ軌道跡
生野の町を走っていた馬車鉄道を廃止して、大正9年(1920年)に電車軌道として完成しました。市川にアーチ型に石垣を積んで、川に張り出して線路を確保されており、今もその美しい姿を見ることができます。
当時は生野鉱山本部から生野旧駅までの間を、アメリカ製の6トン電気機関車が500ミリ軌道で結んでいました。
(生野NAVI https://www.ikuno-kankou.jp/silverarea/trolley-truck/より)

姫宮神社は長い石段の上です。
さて、肝心の生野銀山は、町並みから3.5㎞先の山間部にあります。
1㎞に渡って公開されている坑道の中の鉱夫の等身大マネキンがイケメン過ぎと度々テレビで紹介されています。
なお、江戸時代の手掘り部分を生野銀山、明治以降の近代的掘削を生野鉱山と表記を分けているようです。
時間切れで行けませんでしたので、またそのうちレポートしてみようかな!!

行きは有料の播但道で北上しましたが、帰りはボチボチ平道で。
途中立ち寄った道の駅「銀の馬車道 神河」

重厚な瓦葺の建物の奥は・・・。

茅葺古民家でした。ひと通りチェックしてみたけど、最近の道の駅って結構お値段高い気がします。
地元スーパーで普通に安く売ってるのもあるしね~。
好天に恵まれ、お出かけしまくったGW。
その後は、GWの疲れが抜けきらないのに、学童保育のバイト続きでクタクタです。
人出不足は、飲食、介護、看護、保育だけではありません。
表面化してないけど学童保育のスタッフシフトも結構悲惨です!!
「生野まちづくり工房井筒屋」(旧吉川邸)と「銀山町ミュージアムセンター」(旧浅田邸)の間の通りを東にほんの200mほど進むと、一般の住宅街の先にもう一つの古い町並みが現れました。

長い土塀の中は、「三菱マテリアル 生野クラブ」明治19年(1886)建築
元々大山師の邸宅だったものを、三菱が保養施設と迎賓館として使用していました。
(※山師とは本来鉱脈の発見・鑑定を行ったり、鉱石の採掘事業を行う人を差しますが、鉱脈の発見は一攫千金の投機的意味合いもあります。)

道路を挟んで斜め前に「甲社宅」と呼ばれる生野鉱山の社宅があります。
その一つが、志村喬記念館として整備されています。

甲社宅は、年代別に甲7号(大正時代)、甲8号(明治時代)、甲9号(昭和)、甲19号(明治)の続き4棟が職員宿舎の遺構として保存公開されています。
そのうち甲7号は「志村喬記念館」、甲19号は宿泊施設として使用されています。
甲社宅は、生野鉱山に赴任してきた官吏、技術者のための官舎として建てられたものなので、言わば当時のエリート層で比較的裕福な家族が住んでいたようです。

管理棟(甲20号棟)
受付・休憩所と利用され、各種パンフが並び観光案内所の役割も果たしています。

ひと際立派な五月武者人形。
最近は、ひな祭り飾りを公開する観光地が多いですが、五月人形は珍しいと思いませんか。

甲7号棟(大正時代)~志村喬記念館(内部撮影不可)
志村喬さんは黒沢明監督の作品に多数出演した映画俳優です。(昭和57年没 享年76歳)
氏の父親は、生野鉱山の技師だったため、甲社宅内で生まれ幼少期を過ごしました。
なお、生家は現存していません。

甲8号棟(明治9年築)当時としてはかなりモダンだったのではないでしょうか。
柵の向こうに見えるのは甲19号棟(明治後期)
そのままドラマや映画ロケに使えそうな佇まいです。
普段は一般公開していますが、この日は宿泊客が使用していたため見学不可でした。

社宅の子ども達が元気に遊びまわる様子を想像してみました。

志村喬記念館の裏側です。

昔は主婦達がこの井戸の周りに集まってたんでしょうね~。
甲社宅群の裏側は、8つのお寺が並ぶ寺町になっています。
鉱山の作業現場が劣悪で坑内作業者が短命であった事、全国から鉱夫が集まっていたため、様々な宗派が必要だった事が背景という事です。
信仰だけでなく弔いのための役割が大きいようですね。

姫宮神社 最初に訪れた旧浅田邸裏から見えていた神社です。

右奥の橋です。旧浅田邸の庭から・・・。

クラシックで堅牢な石橋です。

橋の上から、旧浅田家の全景が見渡せました。

橋の反対側からの眺めは、生野銀山を紹介するガイドブックやパンフ・チラシなどに登場する代表的景観です。前述の甲社宅の管理棟でチラシを見せて、聞いたら教えて下さったんです。

トロッコ軌道跡
生野の町を走っていた馬車鉄道を廃止して、大正9年(1920年)に電車軌道として完成しました。市川にアーチ型に石垣を積んで、川に張り出して線路を確保されており、今もその美しい姿を見ることができます。
当時は生野鉱山本部から生野旧駅までの間を、アメリカ製の6トン電気機関車が500ミリ軌道で結んでいました。
(生野NAVI https://www.ikuno-kankou.jp/silverarea/trolley-truck/より)

姫宮神社は長い石段の上です。
さて、肝心の生野銀山は、町並みから3.5㎞先の山間部にあります。
1㎞に渡って公開されている坑道の中の鉱夫の等身大マネキンがイケメン過ぎと度々テレビで紹介されています。
なお、江戸時代の手掘り部分を生野銀山、明治以降の近代的掘削を生野鉱山と表記を分けているようです。
時間切れで行けませんでしたので、またそのうちレポートしてみようかな!!

行きは有料の播但道で北上しましたが、帰りはボチボチ平道で。
途中立ち寄った道の駅「銀の馬車道 神河」

重厚な瓦葺の建物の奥は・・・。

茅葺古民家でした。ひと通りチェックしてみたけど、最近の道の駅って結構お値段高い気がします。
地元スーパーで普通に安く売ってるのもあるしね~。
好天に恵まれ、お出かけしまくったGW。
その後は、GWの疲れが抜けきらないのに、学童保育のバイト続きでクタクタです。
人出不足は、飲食、介護、看護、保育だけではありません。
表面化してないけど学童保育のスタッフシフトも結構悲惨です!!